株式会社アイシーアイ

ICI通信第65号

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特集

2015年8月19日 「カメラのいろは」

今月の特集記事は「カメラのいろは」です。
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今月のBossのつぶやき
~ 僕の子供時代 ~
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 今年は、大東亜戦争終戦から70年目となる。昭和90年である。しかし、自国の敗戦を、70年経っても考えてる、って日本人はエライと思ってしまうし、お隣の国々の人たちの「歴史」に対する思い入れも凄い、とも思う。お互い、結構なトラウマであったのであろう。

 さて、戦後70年と言われてふと思ったのは自分の年齢である。今年で、BOSS生誕から勘定すると(キリストのごとく誕生年を1年目として)65回目の年となる。70引く65は、なんと、たったの5であることに気付いた。まあ、いまさら気付くなよ、ということであろうが、気が付いてしまったことは仕方あるまい。ということは、生まれたのは戦争が終わって、たった5年しか経ってないのだよ。きっと私より年上の人たちは小学生であっても戦争の記憶を「生(なま)」で持っていた時代に生まれたわけである。ということで、僕の子供時代に、どれくらい戦争の記憶が周囲にあったかを思い出してみた。歳とると子供のころの思い出は甦る、特に都合よく、と言うじゃない。

 BOSS生誕は、12月28日。暮れも押し詰まって、何もこんな日に生まれなくても、と思うが、なんでも、予定日は1月1日あったそうな。みんな、お正月ベビーを期待していたところ、御用納めの当日の早朝おふくろが産気づいたのだ。伝説では「今年はもう誕生は無いでしょう」という診断で、入院はしていたものの家族も付き添わず、また当直の医師や看護婦(当時は、看護師ではなかった)も御用納めに向けて一安心していた時であったそうだ。若いころから、こういう風に人の迷惑を顧みず、自分の「都合」を押し通す、おふくろであり、僕であった。朝鮮戦争6ヶ月目で秋のインチョン上陸成功後、米軍が鴨緑江までたどり着いたころである。中華人民共和国義勇軍反撃寸前の時期であった。

 さて、BOSS生誕に纏(まつ)わる話は置いておくとして、先の大戦争の「記憶」の話をしよう。我が家の庭には、防空壕の跡があった。まあ、防空壕の跡などは、皇居の御文庫の話や「ぶらタモリ 仙台編」とかでもあったので、特に我が少年時代特有の「記憶」物件ではないようだが、フツーの家の庭に、ドカンと有る、というのは、終戦10年以内とは言え、少しは珍しい景色ではなかろうか。ただし、防空壕そのものは、不発弾を掘り出す時に潰されており、支えになっていた鉄骨が地上に見えている程度であった。この鉄骨がジャングルジム風なもので、子供の好奇心を掻き立ててしまうようなものであったようだ。なので、家人(たぶん、爺さんか婆さん)が「ここにはまだ不発弾が埋まったままだ」ということにしていた、と思われる。何しろ、土の中に有って錆びた鉄骨などは、これで怪我をすると破傷風の危険があるので、とにかく大切なお坊ちゃまに近寄らせないようにということのようだ。不発弾話は、子供心には恐ろしく、別に防空壕跡でもない場所で遊んでいても(庭は結構広くて、大きなニセアカシアが数本、生い茂っていた)、いつ爆発するのか、不安であった。その後、長く続く夜尿症の要因の一つは、不発弾の恐怖であると言えよう。子供のためとは言え、幼子に無用の恐怖心を植え付けないよう、皆さんも子供のしつけには十分に注意されたい。

 また、我が家の向かいの家にあったものだが、軍刀と三八式歩兵銃も見たことがある。その家のご主人が、持ち帰ったもの、と聞いた。内地(日本本土そういうように言っていたものである)に居た人で、軍属であったが、偉い方、とのことであったと記憶している。負傷され、脚が不自由であったようだ。まあ、爺さんが趣味みたいな養鶏場をやっていた我が家と違い、きちんとした「良い」お家で、子供心にも、気安く上がりこむようなことができない雰囲気があった。とは言え、その家の長女は、年下の僕の面倒を良く見てくれており、というか、たぶんご母堂の言いつけ通り、ご近所付き合いとして面倒を見させられていただけだと思う。家にも、時折入れてもくれた。その時、床の間にあった軍刀と小銃を見せてもらった記憶がある。所謂、おねーちゃんがちびすけに見せびらかしただけ、なのかもしれない。(たぶん、ICIのホームページなどは見ないと思うけど、見てたらごめんなさい、違いますよね、と言います、ハイ)また、我が家には、戦時の道具として、戦争直後あたりに、煮炊きに使った鉄兜がありましたよ。

 少し大きくなって、街に出るようになると、傷痍軍人とい言われる人たちの姿を多く見かけた。人通りの多い、駅前や商店街のはずれに、松葉杖にすがって立つ義足の人であったり、あるいは義手の人に手を支えられた黒メガネ(要は盲目)との二人連れなど、アコーディオンやハーモニカなどをかき鳴らし、軍歌を「寂しげに(あまり、勇ましくなく)」歌っていた。足元には、募金箱があった。みな、白衣(というか病衣、ですかね)を着て、軍帽を被っていた。なぜか、この軍帽が妙に新しそうに見えたが、、、また、義足と義手、黒メガネが印象に残っており、いまだに、戦争で失うものは、命でなければ腕、脚か視力、という思い込みがある。いつのころからか、急激にその数を減らしたが、なんとなくオリンピックあたりで居なくなったような気もする。一方で、会社に勤め始めたころに、新宿の大ガードあたりで見たようにも思う。よく覚えていないが、子供の頃に見た傷痍軍人たちと同年齢のように見えた(30代かな)が、まあ、酔眼のせいとしておく。今のアメリカの帰還兵事情などを聞くと、やはり、大量の若者を戦地に送った後の対応はどこの国でもうまくは行ってないのね、と思える。

 親父は兵隊として戦争に行き、ありがたいことに(そうでないと僕は居ない)生きて帰ってきたので、中国戦線の話を聞かされた。まあ、怖かったのは八路軍(共産党軍)だったそうな。おふくろは、師範学校の生徒であったが、勤労動員(子供心には「アルバイト」と思っていた時期もある)で軍需工場に行き、艦載機の機銃掃射を受けた話を良くしていた。警報で防空壕に逃げる途中で艦載機に追われ、桑畑を逃げたという話だ。機銃弾が、すぐ後ろで連続で爆発するような感じであったそうな。親父は中国戦線で急降下爆撃機に乗っていたが、機銃掃射の話で、「そりゃー、走って逃げれば分かっちゃうよ。来た、と思った時に、ぱっと地面に伏せれば、操縦士からは見えないよ」とか答えて、おふくろの機嫌を大いに損ねていたことを思いだす。「大変だったね」と言ってほしい人に説教するBOSSの悪い癖は、親父譲りであろう。婆さんからは、多摩川付近の空襲の話も聞いた。こちらは、東京大空襲の経験談同じく、真っ赤な空とか水を求めて川岸で息絶えた人たち、とか、そのような話である。一方こちらも、急降下爆撃機に乗っていた親父は空襲した方なので、爆撃の照準がどうのとか、対空砲火は自分の機体の方にばかり飛んでくるような気がした、といった話をしていた。少年には、おふくろや婆さんの話より親父の話の方が面白かったのである。困った父と子であった。概して、おふくろや婆さんは、戦争の時のことは、思い出したくない、という感じであった。特に、校長も勤めた偉い教師の家庭で育ったおふくろは、いまだに「教育勅語」と「日の丸」が嫌いである。戦後は、自身も教師になったが、今度は「日教組」がお嫌いであったようだ。要は、どちらも、理由なくただ「形式に」従うことを強制されたからであったような。(要はわがままな山の手のお嬢様だったのである)

 学校でも、仲間うちでは、うちのトーサンは戦争で、という話も時々はしていた。どちらかというと、海外のどの辺に行っていたか、とか、大尉だった、とか、うちは少佐だ、とか、まあ、トーサンの自慢比べ、という他愛ない話ではあったが。少なくとも、クラスはみんな1950年か51年生まれなので、トーサンが居ない子は居なかった。そういう意味では、10年年上の子たちに比べれば、十分に幸せな世代ではあろう。

 とまあ、結局、alwaysの脚本で没になった夕日ヶ丘三丁目の「風景」の一部みたいであるが、戦後日本には、「まだ戦争はそこにある」という一時期があったのだ。昨今、80代、90代の方々が、どうやって戦争を伝え続けていくかを悩まれている、という報道が多い。それを、その人たちの孫である30代や40代の若手が継ごうとしている、とのこと。しかし、60代の元若い衆はいったいどうしているんだろう?このたった10年間の世代は、直接戦争を経験してはいないけど、その残滓を少しは知っている世代ではないか。確かに、実際に経験した人の話には臨場感があり、感情移入もできるくらいに心に響くだろう。しかし、僕らは、直接、身内や先生(特攻帰りも居たんですよ、学校には)から、話を聞いている、聞いたことがあるはずだ。大きな戦争がちょっと前にあった国がどんな状態なのかも知っている。なので、80代、90代の人たちの話を、本当の親父やおふくろの話を聞くように聞いて、さらに伝えることはできそうだ。僕らの年代は、その後、そうしたかた達の元、高度成長期の一兵卒を勤めた。だが、会社あるいは日本国を豊かにして、自分自身が幸せになるため、かつて日本にあった戦争という不幸な時代から目を逸らしてきたのでは無いのか、と反省してみよう。ね、僕ら、戦争を知らない子供たちの第一世代は、自分たちの安田講堂の話より、戦後に直接見聞きした親父やおふくろたちの経験、傷痍軍人たちの姿を伝えるのが、ほんとは必要でないかな。この時期、僕らの世代は、影が薄いような気がするのは、BOSSの思い過ごしだろうか。

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