コンプライアンス(メールマガジン第9号より)

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今月のBossのつぶやき
~コンプライアンス~
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「コンプライアンス」という言葉がよく聞かれる言葉の一つになって10年くらいになるのではないか、と思う。意味は、辞書によれば、決まりを守ること、である。上場企業では、何かというと「コンプライアンス」とか「コンプラがさあ?」といった言葉が良く使われる。上場している取引所との取り決めを守って投資家にすべて必要なことは報告しているとか、上場廃止になるような法律違反などはしてない、ということが問われているわけである。
しかし、会社が「コンプライアンス」であると証明されても、それは、決してその会社のビジネスが「正しい」とか「善」である、ということは意味していない。いくら法に則った手続きを経て製造・販売した「商品」でも「悪用」されることもあるし、使用者を経済的な破綻に追い込んでしまうこともある。いずれも、「コンプライアンス」の観点からは、問題とはならないだろう。もちろん、別の観点から問題は指摘され、結果として、何らかの規制が行われることはあるし、また、法や規則をすべて守ったとしても、必ずしもその会社の行為が世の中にとって「正しい」とか「善」となるわけではないとも言える。
「非理法権天」という言葉がある。これは江戸時代の言葉で、「非(道理に合わぬこと)は理(道理)に負け、理であっても法で制約を受けることがあり、法は権(法を定める権力)によって定められ、権は天(江戸時代では儒教的な「天の意志」)による」という理屈である。かつて日本の軍国主義の時代にはこの言葉が「天」即ち「天皇」の絶対性を示すものとして使われたが、江戸時代では、幕府による法の統治を正統付ける理由として使われたとのこと。
法と権が「法治」を理由づけるものであるとすると、行為が「正しい」とか「善」であるとかという判断は、法以前の理(道理)か、権威の源泉である天にあるのだろうか。理(道理)にあるとすると道理は即ち「納得できる理屈」であり、出来うれば、大抵の場合「多くの人が納得」できるという理屈である必要はありそうだ。しかし世の中には「誰もが納得できる理屈」なんてものがあるのかという疑問が出るだろう。となると「天」の判断ということになるが、それでは「天」が認めれば何でも良いとうのも、結局は「じゃあ、私の気持ちはどうなの?」となって、やはり「納得」は必要そうだ。「正しい」ことかどうかは、人々を「納得」させなければならないということになる。だから、「正しい」ことは、結局、行為者自身が見つけなければならず、「正しい」ことは何かという問いかけをしていき、それだけではなく、周囲の人々の言葉を聴き続けるということを、日々続けていかなければならないのである。
やはり、法に適合しているという「コンプライアンス」は決して「正しさ」の証明ではない。その人あるいは法人が、所属する社会のルールを守っている、あるいは特定の権威を認めている、ことを証明しているにすぎない。一方で、スーパーマンもバットマンも道路交通法とか航空法など人間の決めた法規を無視しているが、彼らは「正義の味方」として「納得」されているのである。

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