世界を変えよう

BOSSのつぶやき
~ 世界を変えよう ~

今、日本では「維新」とか「新党~」とかいう言葉が氾濫しはじめている。「再編」とか言う言葉も聞く。今から80年前、1930年代も、そうした時代ではなかったか、と思う。これまで世の中を引っ張ってきた人々の価値観は大いに疑問視され、アメリカでは「ニューディール」が、イタリアの「ファッッショ」、ドイツの「国家社会主義」による改革 日本だって「昭和維新」なんて号令もあったのだよ というような、既存の価値を変えよう、という活動が興っていた。この2010年代も、リーマン不況の後、なんとか世の中を変えたい、という気持ちは世界に蔓延している。だから、戦後の「民主教育」の洗礼を受けた僕は、何やらきな臭い臭いを感じてしまい、30台、40台の人たちと違って、維新という号令に簡単には従いたくない、と思ってしまう。でも、世界は変わらなきゃと思うし、変えよう、とも思うのだ。

僕は「日本を変えよう」とは言わない。
変えるのは「世界」じゃなきゃ面白くない。上で書いたいくつかの改革や変革は、生態系で言えば、ニッチ(種の生存環境)を変えよう、という話だ。単に、一つのグループの生存確率を高めよう、とする。「世界」じゃない。だから、戦争や差別、ホロコーストなどの悲劇を生む。

世界を変えるキーワードは、「クラウド」と「水道哲学」に違いない。
クラウドはクラウドだが、今のGoogleとかSNSが世界を変えるか、というとそんなことは考えていない。変えるかもしれないが、そういう「アイティーの生み出す変革」ではない。考え方だ。クラウドの考えは、「資源の共有」だ。個々の効率を云々するのではなく、ネットワークとか情報技術(ITだね)という有限の資源を共有することで、全体の効率を高めて、一人一人のやりたいことに少しでも応えていく、ということだ。これは、たぶん、情報技術に限ったことではなく、エネルギーや食糧生産などにも適用できるに違いない、と考える。ITのクラウドだって、安価に簡便にサービスを使える環境ができて初めて世の中のためになり、世界を変えることができる。エネルギーでいえば、自動車を変え、家電を変え、工場を変えるようなプロダクツやサービス、仕組みができれば、エネルギークラウドも夢じゃない。ネットが国境を越えたように、電気もガスも石油ももっと簡単に国境を越えてしまうことができれば、ニッチ戦略は国家の大事にならないのだ。生産手段だってクラウド化できれば良いんだ。独占は無い。GMもFordもトヨタもホンダも日産も共用化された電気自動車部品をアセンブルするだけ、しかも、アセンブルする設備は世界に散らばっていて、消費地にできるだけ近いところが、簡単にリースできればいい。夢物語?もちろんそうだ。でも、80年前にiPhoneやGoogleの話をしたらきっと夢物語だったに違いないのだが、、、、

これに近いことを考えた人は、かつて日本にも居た。松下幸之助氏の水道哲学である。水道の水のように電気を家庭で使おう、という発想で、家庭で簡易に使える電気製品を作り、適正な価格で提供する、という思想だ。すでに、電気を水、と等価に考えることで、工業的な生産物(電気は工場で作られるよね)すらも地球上でシェアできるもの、と捉えているのだ。何時でも、何処でも、誰でも、というのが、世界を変えるキーワードなんだ。ものがある時だけ、その設備がある場所で、相応の資産を持っている人が、使える、なんていうのは、資源のことではなく、資源を使う道具や資源を使った結果については、あるんだろうが、資源そのものはみんなで共有するものだ。何を使って資源を活用するかは、個人に任されている。でも、使いたい時に使う手段は、さまざまな選択肢があるようにする。幸之助さんは、電気を広くあまねく使えるような製品を作った。盛田さんは、もう少し違った使い方をする人たちに向けて製品を開発した。彼らの夢は、一応適えられているように見えるが、実は、電気の源は有限な石油や石炭というところが問題ではある。なので、本当の意味でのエネルギーのクラウド化は実現されていない。水道哲学は大本のところを解決しないといけないのかもしれない。

世界を変えよう、と思えば、今の状況にも我慢ができるはず。年金だって、高齢者にも共有できる資源があり、それが自由に使えれば、金額の問題じゃない。もし、消費税を使うなら、年金ではなく資源を共有できる仕組み作りに掛けた方が良くはないかい?日本だけ変えたってダメなんだよ。国益ではなく限りなく個人の満足を高めることが重要なんだ、ってことは分かっているとは思うが、、、

孟子に「恒産なくして恒心なし」という言葉がある。為政者は、国民に定職(定食じゃないよ)を与えよ、という原意だが、これも、クラウドで解釈すれば、要は、自分が使える資源(リソース)が世界中で共有化されるようになれば人も落ち着くさ、ということになりはしないだろうか。


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