戦争と平和

BOSSのつぶやき
~ 戦争と平和 ~

大東亜戦争では、日本はこの戦いは国家存亡をかけた防衛戦争であり、かつ欧米諸国の謂れなき植民地支配を受けているアジア諸国民を解放する戦いであるという大義を掲げて戦った。それは、明治維新以来我が国が持ち続けたある種のトラウマの解決を求めた戦いだったわけだ。かつて、明治維新のエネルギーは、欧州列強による清国への侵略と米国軍艦そのものへの脅威を受け、初めて人々が気付いた国家というものの防衛に関する政策論争から生まれたものだ。
結果はともあれ、昭和の軍人たちもこの維新のエネルギーを持っていたはずである。ということで、やはり彼らにとってみれば、北にロシア、西に中国という大国に接する国としての日本の存亡をかけた戦略であり政略が先の戦争の理屈なのだ。

私は大東亜戦争を肯定的に見よ、と言うためにこの話を持ち出したわけではない。
言いたいことは、個々の戦争についてそれが不当なものだったのか、正当なもの(正義のあるもの)なのかという問いは意味がないのでは、ということである。とにかくどの国であっても、戦争を始めるというのは、端的に言ってしまえば、国民の命を賭け金に博打を始めるということなのだ。なので、近代以降は国民が納得しないと戦争はできないわけで、そのために「正義は我にあり」という理屈はどっち側にも必要になるのだ。なので、正義はいずれの側にもあるということから、国際平和を正義とした理屈や政策というものでは、戦争を防ぐことはできない、全く役に立たないと言いたいのである。
今だって、どこの戦争でも自分たちの相手は「平和を乱すもの」であり「テロリスト」なのだよ。

1914年以降、30年間に2回も大きな戦争を経験してしまった欧州諸国(その辺の町や村が戦火に見舞われ、占領下では軍政による統治もあったので欧州は日本なんかよりもっと身近に戦争を経験してるんだよね)は「絶対に戦争はダメ」という強い感情から国際連合を作って、5つの戦勝国の代表に自らの平和を委ねることにしたのだ。
国連は、中国も入っているけど思想的には、ローマ帝国に近いと思う。国際連盟は加盟国が平等であり、加えて本当に強い立場にあったアメリカは参加してなかったので、戦争を防げなかった、と考え、力を持つものが(できれば合議制で)支配力を持つことで、ある国が勝手に自らの「正義」を理屈とした戦争を起こしてしまうことを防ごうとしたのだ。言ってみれば、国際連合とは、5大国がその他の国を守るから、みんな勝手に戦争の引き金は引かないでね、ということに他ならない。欧米諸国は、この現実を受け入れた上で、しかし、国連の理念としては人道主義に基づく世界平和のキーストンだとしているわけだ。

しかしながら、この体制もすでに長年の矛盾が積み重なって崩壊寸前、というかもう崩壊していると思える。
国連の存在によって(でもないだろうけど)大国同士が自らは戦争しないことになったとしても、国どうしあるいは国内外の組織間での争いの種がすっかり消えてしまったとか、紛争は武力によらず国連の議場で解決されるようになったというわけではないのだし、今や国連の平和維持機能は、勝手に起こってしまった戦争の「荒廃」からの復旧や戦争による犠牲者の生活保護のための活動に使われている。高邁な理念や立派な言葉があっても実際の争いの種がなくなるわけではなく、逆にそうした理念や言葉を使って戦争を起こすようなことまで行われている世の中は続いている。
日本のように平和主義を掲げた憲法や基本法のある国も多いだろうが、それでも戦争はなくならない。結局は、自らを守る、ということが最終的には認められるので、その理屈に対抗できるきまりが存在しないのである。まあ、正当防衛なんだよね。問題は「向こうが先に抜いた」か、どうかで「ここでは暴力で問題を解決しちゃいけない」ではないのだ。要は、まだまだ世界は「西部劇」とか「騎士道物語」の時代なのである。
とあきらめてはいけない、と思う。
なぜなら、世界中の思想や宗教には「黄金律」が存在するから。

曰く「他人に行うことは、自分にしてほしいことにしないさい」
曰く「自分にしてほしくないことを、他人にしてはいけない」

要は、一人一人が本当にこの言葉を守れば、「戦い」はなくなるはずだ。これらの言葉を自律的、自発的に守ることが可能になれば良いのだ。理想?いやそうじゃない。動物はみなこの黄金律が本能に組み込まれている。
オオカミどうしの争いでは、自分がいやなこと(死んでしまうようなこと)を争いには絶対に使わない要は、相手の喉に牙を立てないのだ。相手が自分の喉をかみ切れる位置に来た時に、負けた方は腹を見せる。「今後の自衛のためだからね」とか言ってそこで喉をかみ切ることはしない。なぜなら、これを許してしまうと力のある種はこの世界で生き残れないのだ。
負けた方も、「仕返し」はしない。一度、負ければもとに戻るだけである。負けて死ぬのは、たとえば、なわばりを失って生きていけなくなるからで、それは生存競争の結果である。
「自分で自分を守る」としても「守るんだからとことんやったるで」となれば、それはもう血で血を洗うようなことになるし、実力行使が伴えば、恨み、も深くなる。それでは、結局は、種の存続すら危ない。なので、生態系のトップにいる生き物には自然が黄金律を組み込んでいるかのうようだ。人間でも、黄金律を自ら「自発的」「自律的」に守らなければいけないことが本能に組み込まれてしかるべきだ。だから、自然は人間に「自意識」を組み込んだ。
全地球的な生態系の頂点に立つものとして自らの尊厳を守る意思がありさえすれば、黄金律で関係を律することは可能だということである。
自衛という正当性を主張するのではなく、我々自身の「尊厳」に還って現下の紛争を考える方法を見つけ出すこと、それが、おそらく自然が組み込んだ我々自身の種の保存ルールなのではないだろうか。
正義は両面なのだ。こちらが自衛のために軍を起こせば、相手も自衛を主張して対抗できる。
「正義」という理屈で平和を作り出すことは難しいのだ。そもそも平和は戦争があるから考えられた状況であるので、戦争を止める、なくす、ことの目的や理由にはならない。争いは存在する前提で、種の存続すら危うくするような争いの解決法を選ばないこと、そのことこそが重要だ。
完全な「平和」という状況を作るのは無理だ。人が複数居るとか、一つの場所を共同で使う集団が複数あれば、必ず、解かなければいけない問題があり、お互い譲ることに同意しなければ、争いになる。
これが、この地球という生態系に生きているものの宿命だ。それを戦争とするかどうかは、我々の尊厳に係っている。
だから、様々な思想家は、絶対平和を唱えるのではなく、いかにして争いを「治める」か、を説くのだろう。
「超人」を持ち出すものもあれば、「自己犠牲」を主張する場面もある。いずれにしても、個人の判断で自制や自律ができることを
前提にこの世界を治めるすべは模索されていくべきだ。とまあ、終戦記念日には思うわけだ。


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