仕事は辛い または、新年度に向けて

BOSSのつぶやき 2015年3月

~ 仕事は辛い または、新年度に向けて ~

先月は、BOSSとして「楽しい仕事」を作ろう、という話を書いた。今月は、「楽しい仕事」であったとしても、その「楽しい仕事」をする個人は「楽しい」を考えてみたい。というか、先回の話で言う「楽しい仕事」は、会社の仕事(ビジネスとか事業とかいうような)意味で仕事という言葉を使ったが、今回の話題では仕事とは「労働する」とか「作業をする」という意味での「仕事」を考える。

個人の仕事は、時間を売っているというのが法律の世界での労働の立て付けであり、これが「勤め人」の仕事である。まあ、会社で「仕事」を命ぜられる人々は、時間を自由に使えず、身柄を拘束され、命ぜられた作業(おれは頭脳で勝負、と言う人でも、それは「考える」という作業である)をすることである。だから、法律では、こうして命ぜられた作業を行うにあたり、作業者個人の基本的人権や尊厳などが損なわれないように国が個人を守る、ということになっている。これが、労働法の基本的な趣旨だ。と言っても、別にここで「段田凛」の話をする訳ではない。

まあ、労働者(と言われるのがイヤなかたは、ここを英文職種名に置き換えてみて)個人から見たら「仕事は辛い」のが当たり前、というのが、企業社会のジョーシキなのだということである。事業主であるBOSSでも、ホントは辛い。事業主だって、資本家からというより市場の「見えざる手」によって、自分の時間は無くなるわ、自由は奪われるわ、という状況になるのだが、閑話休題。しかし、仕事は辛いけど、実際に人は、単にお金のため、生活のため、と言うだけではなく、仕事をするのよね、という考えがある。資本家や経営者が労働者を上手に搾取する為の理屈さ、と言う方も居るが、なんとなく、それだけじゃないと思うのは私だけだろうか。というか、ホントはそう割り切ると人生楽でしょ、と思うが、結構、お金以外で、例えば「やりがい」とか「自分としての存在感」とかいうもので悩んでいる、労働者諸君も居たりするのが世の中のようである。労働者の時間から価値を搾取する資本のために仕事をすることで、一家4人が路頭に迷う事なく、子供に教育も受けさせることが出来たりするんだから下らん事で悩まず働け、という話もあるかな、と。言い過ぎ?

とは言え、やはり個人から見ると、会社で働く(まあ、個人で働く、でも良いけど)意味というのはとても重要ではあると思う。でまあ、そもそもで考えると、月並みではあるが「人はパンのみ」によって生きるのか、ということなんだと言える。世の中の賢人たちはどう考えているか、ということは、私が言うより、そういう書物の類いをkindleとかkoboとか、あるいは普通に書店や図書館にある紙の本で確認してもらえれば良いので、ここでは私個人の考えを述べよう。まあ、例によって大胆不敵、論理矛盾、意味不明の独舌(筆?)であるので、出典等は気にしないで欲しい。

我々が、「腹減った」だけでない「働く」意味が欲しい理由は、ホモサピエンスに至る進化の過程にあるというのが自説である。人の祖先は、森の中に隠れていたネズミのような生き物であったそうな。大草原に群れを作って悠然と草を食むでも無く、待ち伏せや集団で狩りをするでも無く、地に落ちた木の実を拾い、時には、狩りをする生き物の残り物を漁るような生き方であったのである。草食動物は、「今そこ」にある食べ物の中で暮らしており、「常在食卓」で「労働」と言う概念は無い。また、狩りをする生き物も、懸命に活動しても所詮は食べ物が手に入る訳ではなく、待ち伏せし、あるいは食べ物である草食動物の群れから離れずに居ることが生きる為には重要なことになる。また、狩りをする動物たちは、通常は獲物を狩るということには無関心で居る。うろうろと目つき悪く獲物の間を動き回れば、獲物は逃げる。獲物である草食動物も、常時、狩りをする生き物を警戒して動き回れば、生きて子孫を残すためのカロリーを失う。そういうことを避ける活動が、労働と言えば、労働だが、基本は活動することではなく通常は「無為」でいることが必要なのだ。それに比べ、我々の祖先は、日々、動き回って食べ物を探し、危険が来れば逃げ、時には折角見つけた食べ物を「飢餓の記憶」から食べずに隠し、というような行動を身につけ、なんとか自分の命と子孫を残すためにこうした生き方を選んだ。それがネズミの頃出来た皮質に刻み付けられているので、人は労働する。やがて、文明が起こり、働く者と支配する者に分かれても、支配する者ですら、やがて来る「飢餓の記憶」から逃れることは出来ず、危険を冒して「侵略」や「略奪」という「労働」をする。決して、狩りをする生き物のように、狩りをしないときは無為に過ごし狩りをする瞬間だけ活動する、ということにはならない。「飢餓の記憶」は、死の恐怖の回避、という行動原理となり、我々は、成果には決して満足せず、自らがさらに活動することで、成果物の収量を増やし続け、蓄積を継続させないと満足できない、という本能を持っているのだ。

自分の労働(略奪であれ採集であれ耕作であれ)の成果が増え続けているのが見えていれば、おそらく人は自分に満足している。たとえ、大きな災害(自分のせいではない不作)が来ても、その後は、労働を再開し、成果物を増やそうと活動する。要は、こういう状況が続いている限り、労働の成果が増えて行くことが、労働の目的や意味であるからだ。しかし、時代が進むにつれ、人が自分の労働の具体的な成果を確認することが難しくなった。一所懸命で働いても、報酬が増えない(思ったようには)と言う事もあるし、逆に、労働する側に成果を要求通りに配分したのでは、支配する側が満足できない(生きていけない?)事もある。まあ、言って見れば、大昔の祖先である野ネズミ君たちに比べて、飢餓の危険は減ったのだが、悩みは増えてしまったということだ。なので、成果が増える事が見える、という直接的なものではなく、意味、というようなものが、働くことに必要となった、というのがBOSS仮説である。

なので、ネズミのように単純に生きよう、とは言わない。だからこそ、働く意味を見つける必要がある。それは、誰かから与えられるものではない。まあ、奴隷という労働形態であれば、誰かが与えてくれる意味、で十分である。(というか、そういうように条件付けて働かせるのが奴隷制だと思う)自由な人とは、自分で意味を見つけて働く事ができる人のことだ。人間は基本的に自由である、という思想は、西洋の市民革命以降、世の常識となっている。なので、働く意味は、自分で見つけることが必要だ。モノ作り(農業や工業)で働く場合は、成果が具体的なので、意味を見つけ易いはずだが、それらであっても、現在は、大規模化、分業化が進んでしまい、自分の仕事としてのアウトプットが明確に見えない、という状況になっている。なので、個人で出来る範囲のモノ作りや農業に向うという気持ちも分からないではないが、それだけでは、働く意味を見つける、ということにはならない。おそらく、そういう労働(というか仕事)を始めても、やがて、社会にその存在を認められると、さまざまな関係が出て来て、自分のやりたい事だけでない「仕事」が増える。となると、やはり、アウトプットを単純に評価できなくなり、社会とのかかわり合いの中で「仕事の意味」を問い直さねばならなくなるだろう。人は基本、自由であるが、安定や安全とのトレードオフで、自由を制約される事が出てくるようになる。こうなってきた時にこそ、自分の仕事の意味をきちんと見つけていくことが重要である。意味を見いだせないと、安定や安全とのトレードオフに単なる不満を並べたてるだけの存在となり、自ら自由を放棄することになりかねない。

人が自由である為には、この矛盾を乗り越えられるように、自分の仕事(活動あるいは労働)を続けて行く意味を見つけないといけない。意味を見つける基本は、自分の仕事は何かということ、すなわちその役割と成果、について関心を持つことであろう。それらは、自分の考えの問題であり、他人が教えてあげること、指示出来ることではない。せいぜい、他人にできることは、自分の経験から何らかの助言をすることだけだ。最初に気づくべきは、我々の社会は、一つの生態系であり、生きている個人一人一人には、必ず役割がある、ということだ。もう一つは、その役割を果たすことが、自分の生きている意味であり、その役割は誠実に果たされてこそ意味があるのだ、という職業としての倫理感である。まずは、自分を肯定的に見る事から始まって、社会とつながりを確認し、果たすべき役割を認識することができれば、まあ、間違ってこの会社に入ってしまったと思っている人でも、必ず自分が働く意味を見つけることは出来ると思う。それが、今の会社を辞めることであっても、働く意味、さえ自分で見つけていれば、必ず、次はある、と思ってね。

3月は、学生から社会人まで、変化の季節だ。変化に負けないで、変化に向っていこう!と、今月は前向きに。


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