株式会社アイシーアイ

メールマガジン第27号配信

ICIメルマガ事務局です。

とうとうあのジメッとした梅雨がやって参りました。

レバ刺しが最後の日を迎えるようですね。みなさんは誰と最後の日を迎えますか?
そんなもやもや感をスカッとビールを飲んで明日への活力を蓄えたいところです。
では、ICI通信第27号発刊です。

本メールマガジンは、弊社が創立以来お世話になった方々に送信させていただきました。
メールを毎月お送りし、弊社の活動をご紹介していきたいと思っております。
もし、不要、とご判断いただいた場合は、本メール(mail.mag@i-c-i.jp)にご返信いただければ
配信を停止させていただきます。なお、本文中のURLがご覧いただけない場合も同様に
ご返信くださいますよう、よろしくお願いいたします。
また、お送りしたメールアドレスなど皆様の個人情報の取り扱いについては、
下記をご参照ください。

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本メールが皆様のビジネスの発展に
少しでもお役に立てるように願っております、、、
よろしくお願いします。

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特集

「DWH(データウェアハウス)について」

//i-c-i.jp/wp-content/uploads/2012/06/dwh.pdf

今さら聞けないDWH(データウェアハウス)について説明します。
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今月のBossのつぶやき
~ この国のやり方 ~
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先月、お休みしてしまった。
まあ、準備しておかないとこうなる、ということで、テーマだけでも決めようと考えている。
なので、もともと興味のある先の大きな戦争に関わる話題を8月まで続けようと思う。
(とは言え、連載風になるのも結局面倒になるかも、、、と言うことで、もし話題が変わったらご容赦)

さて、書評ではないが、新潮選書の「未完のファシズム」という本を読んだので、
まずは、考えたことを書いてみよう。本の中身は、先の戦争の時、日本はなぜあのような
ファナティックな戦闘国家になってしまったのか、という話。国の運営を定める法が十分に整備されずに、
統治機能は、天皇を中心としているものの、統治を実行するための権力がいくつにも分散された状態があり、その状態を前提としてどこまで近代的な戦争を実行するか、ということから、あの「天皇陛下万歳」だけで死ねる兵士や玉砕を平然と実行する思想ができた、と説いている。

今回のつぶやきでこの話を取り上げた理由は、先の戦争についての考え方で、従来の私が持っている疑問への一つの答えを示唆してくれたからである。

私が小学校以来、歴史で習っている近現代の日本の姿は、明治憲法により立憲体制となって、欧米型の近代国家になり、日露戦争と第一次大戦を経て列強の仲間になって、結果、満州の支配権をめぐっての戦争から国家主義をベースとした陸軍を中心とする軍閥政権が太平洋戦争を引き起こした、というものだ。なので、戦前の日本は、少なくとも、同盟を結んだドイツ、イタリアとともに代表的なファシストの国、と習ってきた。まあ、右側の方々がいろいろと叫んでおられるが、今でも大筋教育現場での近代史の教え方は上記のようなものだろうと思う。
で、まあ、戦争で負けた結果として、ファシストは消え去って、今や民主主義国家に変わった、ということだ。

私の疑問とはここのところだ。

私からすると、この歴史感では、なんで太平洋 いや、大東亜戦争を始めたのか、その結果、今があるのはなぜ? という疑問について全く釈然としない、と言うことである。
ドイツのように単一の高邁な目標やそれを推進する国家体制の建設などがはっきりとあったようにも見えず、同じような国とはとても思えないし、ドイツでは戦後は国家社会主義的な思想が禁止されているそうだが、日本では何が禁止されているのかも定かではない。
つまりは、戦前の日本は決して国家社会主義を標榜する全体主義の独裁国家ではなかった、ということだ。
これは、瀬島龍三氏もハーバードの講義でそのようなことを述べておられた。他の本やドキュメントを見ても、東条英機は決して独裁者ではなかったし、ましてや、天皇陛下とかその「奸臣」たちが何か自らの意志を押し通すために国民を犠牲にした、なんてこともまるっきり見当たらない。それどころか、天皇陛下は何回か対英米戦争を前提とした国策について反対を表明されている。要は、軍は軍としての考えを実現しようとし、また、内閣は内閣で民衆の意志をうまくコントロールできずに、日本は列強の一員でアジアの盟主という「嘘」(というと聞こえは良くないけど)をつきとおすために、なんとか帳尻を合わせた結果、英米をメインとする連合国と戦争になってしまった、というのが実態のようだ。

また、戦前の日本は、非民主的な国家だったかというと、現下の政治とは違いがあるにせよ、あの大戦下ですら、きちんと議会が開かれ、複数政党を前提とした普通選挙が行われ、中には大政翼賛会や警察権力による選挙妨害に対する訴訟まであって、憲法や政党そのものを止めてしまったドイツに比較すれば、非常時でありながら、イギリスと同様に立憲君主型の民主政治は健在だったわけだ。
要するに日本の現代史とは、権力の集中を極度に排除した憲法のおかげで というか不磨の大典を改正することもせずに 戦争に必要な国家全体を統べる独裁権を作ることもなく、平時の体制を中途半端に「威勢よく」みせるだけで大戦争を戦うことになってしまった、というある意味幸福な国の不幸な歴史なのだ。

私には、この中途半端さが、憲法が変わっても、わが国の統治のやり方ではないかと思える。少子高齢化の急速な進展とか未曾有の災害への対応、その災害から派生した原子力利用に関する問題など、「今そこにある危機」にあたって相変わらず「中途半端」がまかり通る。極端に考えれば、これらの問題解決にあたっては、戦争と同じく国家の持てる力を統合して活用するためのある種の総動員体制が必要である。
しかし、理論的、原理的な総力戦実施の根本的解決法は求めず、技術的な解決を行政府に提案させ、鹿爪らしく国会で議論することに時間を費やす。出てきたものは、全体的な解決策ではなく、各組織や地域、既存団体の利益のごった煮であって、ある意味、中途半端である。「民意」のつまみ食いである。
なので、二大都市の首長さまたちのような「実行力」に恵まれた指導者に注目が集まるのだが、果たしてそれで事は収まるのか、というとこれまた、利害の調整が本当に可能かというと、どうなんだろうか、と思える。
その点、時間はかかるけど、中途半端にできることを積み上げる方式というのも、ある意味、調整の時間を作り出すことが可能なわけで、きちんとした制度や法律の準備もいらず、責任分界点の変更も不要とすれば、それはそれで、それこそ国力を傾けた本当の戦争でもない限り、結構役に立つものなのかもしれないなあと思ったりもする。
まあ、民衆は我慢を強いられるけど、独裁国家の我慢に比べればどうなんでしょう、というところだ。

いずれにせよ、中途半端で不幸を生み出すのは、国が国民を本当に集中させて事に当たらねばならないようなもの 『つまりは戦争だな』 なのだ。
逆にこうした不幸を生み出さないためには、もしかしたら中途半端を徹底することが重要なのかもしれない。どうせ、全体主義的な方向性や原理主義的な考え方はなじみそうにない我々は「中途半端」をその方針と定め、絶対に大事(おおごと)を起こさない、という決意は必須なのだ。まあ、南の島の問題も、一地方団体が購入するかしないかで、議論をするのもある意味で、本当の戦争を避けられれば、良いのかもしれない。
そういう意味で、憲法第9条はとても大切な条項かもしれない、と思う。たとえ侵略の危機が来ようとも、この国では、いい加減な「中途半端」統治に慣れきった日本国民は、心から占領統治に従うことはたぶん無い、と思える。
結局、被占領国民による中途半端な自治がまかり通り、米軍のようにその上に「君臨すれども統治」せず、になるに違いない。
良いことか悪いことか、分からぬが、わが祖国は、そういうやり方の国なのかもしれない。と思うのだが。

(i^c^i)

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